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2006-06-15

平野啓一郎『顔のない裸体たち』

『顔のない裸体たち』刊行記念対談 波 2006年4月号

ネット社会とΓ恋愛」最前線

高橋源一郎×平野啓一郎

若き文豪″平野啓一郎がネット社会の罠を描き話題沸騰の衝撃作!

■「負け組」の仮面パーテイ ■モザイクの意味 ■恋愛「じゃない」もの

高橋 「新潮」に掲載された時すぐ読んですごく面白かったんですが、今日は
ちゃんと話そうと、目を皿のようにしてもう一回読んできました。この作品は、
多分みんな読んでちょっと戸惑うと思うんです。もちろん、すっと読めばいいん
ですけれど。
平野 ネットの出会い系サイトで知り合った男女が、部屋や野外で淫らな行為
に耽るというような場面がたくさんあるので、特に書いたのが僕だから驚いた
という声は確かにありますね。
高橋 でも、読んでいて森鴎外を思い浮かべちゃったんですよ。
平野 実は『ヰタ・セクスアリス』をちょっと念頭に置いていたんです。特に
文体に関してはネット問題を扱うので、先に書いた「最後の変身」(『滴り落ちる
時計たちの波紋』所収)と対になるようにしたかつたんです。あれは一人称の
ネット的な文体で書いて、こっちは一人称でまさしく鴎外的な文体でいきたいと。
もう一つは『ボヴアリー夫人』ですかね。人が最も淫猥だと思っている事を、
最も端正な文体で書きたいという意図があったんです。ネット上の事を書く時に
ネット的な文体で書くと、一般の人たちは一部の特殊な世界の話だと思つて
受け付けない。だから、誰もが普段使つている言葉の内側から、ネットに表われて
いる人間性の猥雑な一面を浸潤させていきたいという狙いがあって、あえて
デリケートな心理描写と同じ水準で、淫らな事も憚らず書きたかったんです。
高橋 書くのに苦労したのか、それほど苦労しなかつたのか、書いた当人しか
わからないと思うけれども。きっかけは何でした?
平野 最初はたまた女友達が、面白い、ヘソなサイトを色々と送ってきてて、
その中に気になつた写真があつたんです。小学校のグラウンドで子供たちが
体育をしているのを背景に、女が素っ裸になっていて、モザイクのかかりた顔で
笑っているんです。「小学校と裸の女」という組み合わせがちょっと衝撃的だつた
んです。何だこれ、と。ポール・デルヴオーの絵みたいに全裸で、しかも遊んで
いる子供の中で、ふっとこっちを見ている子がいるんですょ。
高橋 たしかに絵みたいだね。
平野 それで興味を引かれて調べたら、ものすごい数の素人の投稿サイトが
あるんです。しかもアクセス数が毎旦二十万とか。そこに出ている女性たちは、
全裸もあれぱちょっと服が残つている時もあって、洋服を見るとダイエーの
衣料品売り場とかで買つたんじやないかというごく普通の格好をしている。
こういう人たちって、勤務先とかでは多分誰もこんな事をしているのに気が
ついてないだろうな、と。それを三十歳位のごく普通の真面目な女教師と
その相手という設定で書いてみたら、面白いんじやないかというのが動機ですね。
高橋 今や誰でもインターネトで裏の世界と繋がれるでしよう。自分の「公」
の名前を消してハンドルネームにして、顔を消して裸の体だけを出して、
それで裏の世界にログイン。それがアップされてもう一回「公」になるんだよね。
それで社会と繋がる。だから主人公の吉田希美子は表では実際の意味で社会と
繋がりてなかったんですよ。「公]の意味は色々考えられるんだけど、要するに
社会と繋がりているという感覚だよね。多分、表の世界でそれがないので、
裏の世界で<ミッキー>というハンドルネームを使つて世界と繋がれるという感じ
があつたんでしょう。
平野 コミユニケーシヨンに飢えているというのはあると思います。特に性的な
事に関しては、今までは一対一の関係で恋人が体を褒めて、性的に愛して
くれればバランスが取れていたんでしょうけど、ネットを見ると、相手がマスに
なつて質より量を求めてしまうというか、そういう時代の風潮を反映していると
思うんです。ある一人にものすごく愛されるというより、たくさんの人に見て
もらってたくさんの人に褒めてもらつてたくさんの人に欲情してもらわないと
自分が保てないという感じです。
高橋 やつぱり自己表現というか。
平野 あと、イヤな言い方だけど、世間のいわゆる「勝ち組」、「負け組」で
いうと、要するに美人かブスか、顔がいいかどうかって、すごく大きな要素に
なっている。アイデンテイテイもシニフィアンとしての顔で管理されて、首から
下だけで新しい生(=性)を営みたいというのがネットの社会に広がつていると
思うんですよ。性的に愛されるという事も結局顔に抑圧されていて、ものすごく
かわいい子がナイスパディだと「おおつ」つて言われるけど、かわいくない子
だと笑われちゃうとか、だけど顔を取っ払ってしまえば、顔のせいで注目され
なかった自分の体の魅力もアピールできるし、性的に求められるという事で、
ある種の表の社会に対する復讐もできる。
高橋 復讐であると同時に下支えなんだよね。上流と下流があると、どうしても
上流のほうが少ない。圧倒的多数の下層、下流階級をどうやって救うかという
問題が出てくる。今、恋愛ってイデオロギーになっているでしよ。恋愛を
しなきゃいけないらしい、みんなしているし。とすると、完全に勝ち負けが
出てくるじゃないですか。負け組の人たちって、別の世界で勝ち組になる
しかないんだよね。表の世界で負けちやって、下流と呼ぱれるけど、
もしかしたら裏のネットの世界だつたら上流になれるかもしれない。
負けていたくはない気持ちにセクシュアリティーというのが付属してきちやう
のね、逆に。
平野 「負け組」になりたくないから、吉田希美子も性的にがんぱってしまう。
高橋 僕もこの小説と同じテーマで『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』
という作品で、もてない男ともてない女の話を書いたんですよ。僕はAVの方に
シフトして書いたんですけれども、平野さんはインターネットの方で話を展開
させたんですね。やっぱりこういう事って非常に書く対象として面白いなと
僕も思ったんですよね。
平野 高橋さんはもう昔からこのテーマでは色々と書かれていますよね。
高橋 これは結局、もてない男と女がどうやって成長していったかという
教養小説ですよね。そして、一応恋愛小説でもある。
平野 まあ、そうですね。
高橋 僕のも恋愛小説だったから。まあ、小説って、八割方が恋愛小説なんだ
けど(笑)。これがおかしな話で、昔から全部、主人公は美男美女だった。明治
時代にそれはフォーマットになった。しかも男はたいてい帝大生で官僚になる
ような奴がわざとドロップアウトしてる。どう見ても美男で頭がいい。女性の
ほうは、貧乏だったり、そうでなかったりするけど、とにかく絶対美女。だから
美男美女が恋愛をして、うまくいかないけど人間として大きくなるという話
でしよ、全部。八百長っばいよね。そういうのを読まされているから、じやあ、
私たちは恋愛をしちやいけないのかしらと思っちやう。小説家はみんな罪人だ
(笑)。

「負け組」の仮面パーティ

高橋 登場人物の<ミッキー>と<ミッチー>の二人が野外での行為を撮影したり、
ビデオを撮ったりしているじやないですか。これ、キュープリック監督の
「アイズ・ワイド・シャツト」でトム・クルーズが行く仮面パーティですよね。
あれは勝ち組の、つまり表の中の表の世界の人たちが、あえて仮面をつけて裏
の世界を作っている。でもほとんどの人はああいう場所がないので放置されて
いたんですけど、インターネットって負け組の仮面パーティが出来る場所なんだ
ね。
平野 そうですね。
高橋「裏」っていうのは見えないというところで存在価値があったのに、
集合的無意識としてのインターネットという形で、表に出てしまった。これつて
本当にいいのか? つまり、誰にもわからないのが裏の条件で、それゆえに
自分を解放できたんだけど、この小説のラストみたいに事件が起きたり、
ウィルスに感染したりするとその瞬間、超・表になってしまう。今までだったら
秘密がパレても周りの人だけにで済んだのが、今や世界中に公開される。
平野 ええ、そうなんです。
高橋 この小説の登場人物たちは、生まれて初めて裏を持てたわけね。それで
やっと勝ち組に対抗できたわけです。上流階級の勝ち組は恋愛を持つています
よね、豊かなセックスを持つているし、多分内面も持っている。何も持たない
恋愛プロレタリアートは。
平野 しかも地方に住んでいるとね。
高橋 そう、地方にいたら全然、機会がないんだから。そこに格差があるで
しよう。やつとこうして裏を持てたのに、悲惨な結果になつてしまう。これは
やっぱり二十一世紀の新しい破産の形態ですよね、破壊というか。
平野 ネット社会で面白いと思うのは、「距離を超えられる」という事ですよね。
格差という事で言うと、東京にいると実はあんまりピンと来ない部分もあるけど、
地方に行くと如実に感じるんですよ。田舎って本当にする事がないけれど、
ネットがあれぱ原則的には世界中の人と直接交流ができる。距離的な感覚が
破壊されてしまった。こういうのをやっている人たちって、全部匿名でも
出身地だけは本当の事を書いたりするんですよ、「滋賀のミッキーさん」とか。
それを見ると、ほとんどが地方都市で、東京ではあんまりいなくて。
高橋 それはすごくあります。僕は『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』
の時に「JJ」とか「CanCam」のような雑誌がどこで読まれているか調べたんだ
けど、ああいう夢売り系の雑誌が売れているのつて基本的に地方なんですよね。
それから、アダルトビデオの面接シートってあるでしよう。あれはスリーサイズ
のほかに、趣味とか出身地と好きな雑誌を書くようになつている。これが面白
くて、もう圧倒的多数が都市近郊で、好きな雑誌は「JJ」「CanCam」と判で押した
ようになるわけ。AVの監督が言っていたのは「『JJ』がなかつたらAVはつぶれる」
って、逆説的に。ああいう人たちが読んで、物欲が生まれて、物欲を満たしたいん
だけど、田舎にいたらコンビニで勤めても月に十万円にしかならないのに、
何でシャネルのバッグが買えるんだ。でも「JJ」を見ると、いけてる女は全員
持っているらしい、何とかしなくちや、と。これは危ない。
平野 やっぱり格差というか、自分たちに何か欠けているという焦燥感が、
実際のリアルな東京の生活以上のものを妄想として抱かせてしまうんでしょう
ね。
高橋 東京にいると、実は意外と感じない。ネットは確かにあるものの距離を
縮めたけど、逆に距離感は増したんだよね。情報だけは世界中から取り込める
けど、じゃあ実際に何かしようといってパッと窓をあけると田んぼが広がって
いたりして、どうしたらいいんだという事になっちゃう。
平野 結局リアルな世界に対する突き上げが常にあるんですよね。だから、
リアルな世界の色々な場所でこっそり裸になってそれを撮影して公開すると
いうのは、やっぱり世界に対する一つの侮辱の表現だし、復讐でもある。
ネットの世界で妄想としてお母さんを殺してやるとか、子供を殺してやると
思つた人が、現実にそこに行かざるを得ないというのは、結局そういうバランス
じゃ保たれないんだと思うんです。特にネットの世界のエロの話で言うと、
例えぱ「巨乳」というのもこの中で書いたんだけど、相手が自分でコントロール
できる領域として描かれているんですね。だけどそれは、リアルな対人関係の
反映かというとそうじゃなくて、女という表象を一つの素材として、自分たち
が架空の権力関係を捏造するものとして出ている。そのバーチャルな関係の
中で完全に満たされるかというと、結局はそうじゃない。そうすると、一見
棲み分けによつて彼らの欲求も発散されているかのように見えながら、時々
やっぱりその突き上げが出てきて、それが事件という形になるんじゃないか。
これも僕が書きたかった事の一つなんです。

モザイクの意味
高橋 この本は表紙にモザイクかけるんだ。モザイクって面白いよね。
平野 それに気づいたのは、外国に行った時なんですよ。向こうってポルノ
でもニュースでもモザイクってないんです。これは日本独特の文化で、ある種
「陰影礼讃」みたいなものらしい。
高橋 向こうは、やるかやらないかだから。死体を映しちゃうか、全然映さ
ないか。おかしいよね、モザイクってまず性器にかけるでしょ、それから
捕まった人間の手にかけられた手錠でしょ、それから顔だよね。
平野 モザイクが標的としている部分だけを取り出すと面白いですよ。
「素人物」と称されるAVを見ると、顔と性器っていう身体の意味的には
一番遠いところにあるはずのものにだけモザイクがかかっている。
高橋 モザイクがなくなったら日本のAVはすぐ滅びるって、やはりAVの関係者
が言つてますね。これがあるからいいんだって。
平野 やっぱりそれで性器をある意味、身体の中で差異化していて、特権化
しているところがあると思うんです。だからみんながそこを見ようとする°
高橋 モザイクがかかるのは顔と性器、という事は、顔も性器みたいなもの
なのかも。絶対見せちゃいけないものと、ずっと二十四時間見せているもの
についではモザイクがかかる。
平野 性器のモザイクってある意味、ぎゅっと収縮した衣服の代わりみたいな
ものとしてあつて、顔もネットの世界では隠さなきゃいけない。それが同じ
もので隠されているというのが絶妙というか。「顔は隠すからと言われたら、
人間って裸になれるんだろうか」というような話をこの小説を書いている時に
友だちとしていたら、みんなやつぱり一瞬考えるんですね。そういう約束で
素人でもAVに出ている。結局今、倫理的にしてはいけない事って、社会の中で
それを非難されるか、パレるかどうか、という事だけですよね。ホリエモソから
構造計算書偽造、全部要するに「パレるかどうか」が一つの価値基準になって
いる。そうすると、顔さえ隠していれぱ別に何してもいいんじやないかという
のが、価値観として広まつているのはわかる気がします。

恋愛「じやない」もの
平野 性にまつわるコミュニケーションって、みんな雑に扱ってきたと思うん
です。日常のコミユニケーシヨンの外にあるものとして、恋愛を描いて
おきながら、性を書く時はちょっと触れるだけで、周辺にあるコミユニケー
シヨンは一切書かれなかったり、非常に美化して書くとか。そういう事に
ずつと違和感があって、「高瀬川」という小説でも、本当はセックスする時は
変な事、笑えるような事がいっぱいあるし、その笑いの中に繊細な気づかいや
優しさがあるんじやないかと思って書いた。やっぱりこの小説でも美化し
切れないもの、恋愛じやないものを書きたかった。その「じゃない」部分と
いうのを掬い取りたかったんですね。
高橋 いわゆる恋愛と言われている部分は、現実に恋愛していても恋愛の文化、
やつぱりフィクションなんですよね。「じやない」部分はなるだけ見ない
ようにしないと、恋愛なんてできない。恋愛を現実にする場合、現実離れ
していてはできないんだけど、でも現実離れしていないとできないという事も
ある。
平野 本当は恋愛つてすごく雑多なもので、恋愛「じやない」ものに常に左右
されているはずなんですけど、やっぱり男女の関係を書こうとすると、みんな
そこにフタをしちゃうんですよね。
高橋 この小説は男女の視点が交互に書かれているよね。関係つて交互なんです。
男女のコミユニケーシヨンつてすごく難しいというか、ほとんどあり得ないん
だよね。その中で何かの間違いで偶然コミュニケーションが成立しているという
感じがする。だから交互に書くのは全く正しいと思います。相手の事つて実は
全くわからない、多分お互いに「こういうふうに思っているんじやないかな」
でしょ、全部。
平野 そう考えると、恐ろしいですょね。
高橋 でも本当に、この小説すごく面白いよ。普通の小説の恋愛というのは
ほとんど嘘なんですよ。描かれた時点でもはや美化されたものなので。もちろん
現実にも美しい出会いはあるんですけれど、やっぱりリアルな恋愛というのは、
ここに書かれているようなヒリヒリしたものだという事を、ちやんと読まれ
なきゃいけない。恋人が白血病で死ぬ人より、出会い系サイトをやつている人の
ほうが絶対千倍位多いんじやないか。だから、本当にリアルな恋愛はこの小説に
書かれている、と言いたいね。
平野 ありがとうございます(笑)。

(たかはし・げんいちろう作家)
(ひらの・けいいちろう作家)
▼平野啓一郎『顔のない裸体たち』
三月三十日発売

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