マディソン郡より住んでみたいところ
マディソン郡より住んでみたいところ
福田和也
インタビューで座右の銘を聞かれるというので、親しい編集者と考える。「正直の頭に
神宿る」一日一善」等 信条そのままを挙げるが却下され、「人を呪わば穴二つ」
「斗酒なお辞せず」等が提案された。 Marcopolo199403
フランスの週刊誌には、たいてい裏表紙の内側(いわゆ
る表三という処ですな)に不動産の広告がのっている。
パリのアパルトマンとか、高層住宅とかにまじって、モンペ
リェのヴィラとか、ニースの邸宅なんかがのっているのだけれ
ど、安いんだね。
いつだったか、ボルドーのシャトーが売りに出ていた。グラ
ーヴを名乗る権利のある畑とカーヴ、シェ付きの屋敷が、千五
百万円というので、僕は唸ってしまった。
湯沢あたりのリゾート・マンションより安かったんだから。
考えちやいますよ。畑にカベルネを植えて、収穫量をできるだ
け抑えて、全部樫の新樽にして、ドメーヌ・ドゥ・シュヴアリエ
を凌駕するような白ワインを作って、うんとクラシックなラベ
ルを貼って……。
実際にやることになれば、家も改修しなきやならないだろう
し、醸造の専門家だの収穫のスタッフだのも雇わなきやならな
いし。莫大なお金がかかる。よほどの覚悟がなければできるわ
けがないんだけど、ぼんやり考えるにはいいネタだ元手がか
からず、非常に幸福になれる。しばらくは、ことあるごとに三
センチ角のぼやけたシャトーの写真を思い出していた。
こういう妄想は、不純といえば不純かもしれない。不動産価
格の落差が背景になっているから。でも、為替の問題とはいえ
皮算用の範囲でそういう物件があるというのは、なかなか大変
なことだと思う。何年か前には、料理学校やマンション会社、そ
れに個人でフランスにお城を買った人もいたんだから。
でも別荘を買ってたまに行くだけだったら、湯沢や苗場と変
わらない。やっぱりフランスやスペインなら生活しないと本当
の楽しみというか、醍醐味はないだろう。でも、どうやって生
活するか……。ワイン業者として成功するというのはなかなか
難しそうだし。
そこで本当に住んでしまったら、やっぱり楽しいぞ、という
ことを書いたのが、ご存じビーター・メイルの『南仏プロヴァ
ンスの十二か月』である。とんでもなく売れている。一昨日書
店で奥付をみたら、五十二版になっていた。TV番組も面白か
ったし、もっと売れるだろう。
しかし、イギリス入っていうのは、フランスを堪能すること
にかけては、世界一だね。ドイツ人のイタリア愛好と双壁をな
している。ボルドーのワインをここまでにしたのもイギリス人
の手柄だ。フランス人にまかせておくとブルゴーニュみたいに
滅茶苦茶になってしまうけれど、中世以来緑が深く、今でもシャ
トー・ラツール以下イギリス資本が入っているボルドーは、品
質にしろ、格づけにしろ、安定していて、信用がおける。いい
ワイン評論家っていうのは、ヒュー・ジョンソンにしろ、ロバ
ート・パーカーJr.にしろアングロ・サクソン系だし。
この本は読んでいて本当に楽しい。南仏の自然や食物だけで
なく、三星レストランを酷評する床磨きの職人とか、裏金の授
受を助けるために取引中に小用に立っ公証人といった人物と引
き合わせてくれる。フランスの田舎者なんて本当はウンザリす
るような奴ばかりだと思うけど、イギリス人の視線を通すと、お
値打ちのテーブル・ワインのように見えてくる。
だから、売れた事には不思議はないのだけれど、やっぱり不
思議だね。面白いだけじゃなくて、彼方の暮らしを味わいたい
っていう気持ちがあるためだろうか。
確かスタンダールだったと思うけれど、イタリア絵画の魅力
は彼方が描きこまれている処だと書いていた。モナ・リザの背
景に遠くの森だか林だかが描いてあるでしょう。あれが、イタ
リア流の彼方だと。
この言葉に僕が感動するのは、前景の人物より隅の遠景を見つ
めてしまう、「今-ここ」へのどうしようもないいたたまれな
さが表れているからだ。
大食して、昼寝して、大蒜やアニスの匂いに包まれる彼方の
幸福を眺める程には、僕たちもいたたまれないのだろうか。
-------
コメント