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2007-05-22

軽井沢観光のあゆみ

軽井沢観光のあゆみ   軽井沢町資料より抜粋
1871明治4 8月 峠町・軽井沢村.沓掛村・借宿村・塩沢新田・油井村・成沢新
田・馬取萱村・発地村・追分村・茂沢村に分かれていた。

1878 明治11 9月6日 明治天皇、北陸東海ご巡幸のおり、峠町熊野皇大神社で小体、
軽井沢宿旧本陣佐藤織衛方で昼食、追分宿旧本陣土屋一三方で お泊まり行在所
となる。 主要官僚、岩倉具視以下672人、それに長野県の官吏や警察官 が随行
諸員計797人、人足1,027人、馬113頭動員。

1881明治14 倍宿の土屋長次郎、柳宿で天然水を始める。(北佐久郡志)

1884 明治17  5月22日  碓氷新道、坂本~軽井沢駅間(離山間ともあり)工事竣工。県 七道開さく工事で、一番早く完成する。延長4里25丁18間、 人夫30万3千人、工事費7万9千円、工事費は全額長野県で負 担し、明治18年11月群馬県に管理を移管している。(現国道 18号線)
(長野県政史第1巻)これによって、軽井沢宿衰退の 一途へとたどる。

1886明治19 A.C・ショー、デイクソンの二氏は、相前後してこの地を
過ぎ、 山容野色の如何にも泰西的なるを見て、親しく土地の状況を観 察して帰
京し、再び同年7月上旬にニ氏何れも家族を伴って来 る。8月下旬まで滞在した。
A・C.ショーは高林薫平の居宅、 デイクソンは佐藤万平氏所有の家屋を借り受
けた。 A・C・ショーはこの滞在によって実見した軽井沢の風土が避暑 地として
好適なるを証明し、専ら内地在留の欧米人に紹介して 来遊を勧める。 アレキサ
ンダー・クロフトショーは、1846年(弘化3年)3 月、カナダのトロント市で生
まれた。父はスコットランド(英 国)貴族の出で、当時トロント市の連隊長で
あった。父のもとで、神学校に学び、卒業後日本に派遣された。明治6年9月横 浜に上陸し、東京でまず日本語の勉強を始めた。一時、福沢諭 吉方に居住し、慶應義塾でキリスト教倫理学を講義した。宣教 に従事して多数の信徒を得た。

1888明治21 5月 A.C.ショー、つるや主人佐藤忠右衛門の斡旋によって大塚山 に別荘を建てる。別荘の第1号である。民家を移転し、改造し たものである。現在移築し、ショーハウス記念館としてショー 氏記念礼拝堂裏に現存する。 デイクソン(東京帝国大学文科講師、英国人)は、佐藤万平宅 地内に別荘を建てる。 牧野富太郎、軽井沢の谷地で「ヒメマツカサススキ」を発見す る。

12月1日  直江津線、軽井沢~直江津間開通。 上り 下り 1日3本 軽井沢一御代田 中19銭 下10銭 軽 井沢一小諸 中34銭 下18銭(交通によって繁栄した追分が 交通によって衰微する基となる。)

イギリス聖公会垂堂(ショー氏記念礼拝堂)A・C・ショーによっ て初めて開かれた教会。

1889明治22 避暑客数30余名となる。(生徒を除く)

1893明治26 4月1日 碓氷線アブト式鉄道、横川~軽井沢間開通し、高崎~直江津間 全通。 暫くは、高崎・直江津間鉄道と呼ばれ、明治28年路線名称統一 制定にあたり、信越線と正式に呼ぶこととなった。(長鉄局20 年史)

8月   福井県代議士(海軍大佐)八田裕二郎別荘を建てる。 邦人別荘の最初である。A.C・ショーの如く努めて軽井沢を日 本の上流社会に紹介する。 軽井沢は健康地であり、スイスのモンブラン付近に優る避暑地 であるという。 ●    ●    ●    ● 外人避暑客の指導によってかんらん(キャベツ)が初めて栽培 される。(雨宮新田)

1894  明治27年 亀屋旅館(佐藤万平)を欧米風の外国人客専用ホテルに改造し、万平ホテルと改名
1900  明治33年  軽井沢ホテル開業(旧軽井沢本陣、佐藤熊六)
1902  明治35年 A・C・ショー氏死去(青山外国人墓地に葬る)
万平ホテル、桜の沢に移転(洋風建築、洗浄式下水装置完備、洋室22、敷地2万坪)
1906  明治39年 三笠ホテル営業開始
日本女子大学夏期寮、三泉寮開設(学校寮施設の最初)
1907  明治40年 新軽井沢区有志によって、軽井沢スケート場を造る(営林署から借地4,000坪)
1908  明治41年 「A・C・ショー記念碑」設立
1909  明治42年 追分に夏期仮停車場を開設(7~9月まで3カ月間)
1910  明治43年 町内大洪水で甚大な被害を受ける
沓掛駅(現中軽井沢駅)開業
桂太郎総理大臣、離山に別荘を建てる
1912  明治45年 碓氷線横川~軽井沢間アプト式電化する(日本最初の電化)軽井沢駅改築。 
1914  大正3年 星野温泉、旅館開業
長野電燈佐久支店により、新・旧軽井沢、離山、沓掛に電燈がつく(952燈)
借宿・追分に電燈がつく
1914  大正4年 草津軽便鉄道営業開始(新軽井沢~小瀬間を蒸気機関車、距離10km、大正13年電化)
野沢源次郎、川田竜吉の所有地を譲り受け、土地分譲貸別荘を始める
1916  大正5年 第一回軽井沢スケート大会開催
「財団法人軽井沢避暑団」設立 
1918 大正7年  軽井沢通俗夏期大学開講(総裁・後藤新平、会長・新渡戸稲造)
1920  大正9年 堤康次郎、箱根土地(株)を設立、箱根、千ヶ滝の開発促進
軽井沢ゴルフ倶楽部創立(11年 9ホール完成)
1922  大正12年 東長倉村、町制をしき、「軽井沢町」と改称(人口5,012人、890戸)
信濃追分駅開業
1926  大正15年 旧軽井沢地区ハウス番号実施(避暑団市政委員会と軽井沢郵便局との協議による)
1927  昭和2年 南軽井沢二十間道路完成
1930  昭和5年 「財団法人南ヶ丘会」を組織し、新ゴルフ場建設を企画する(昭和8年完成 18ホール) 
1933 軽井沢町観光協会設立
碓氷国道鋪装完成(坂本~軽井沢間) 
1935  昭和10年 聖パウロ教会開設
1940  昭和15年 旧軽井沢中央通り大火(罹災28世帯、全焼15戸、半焼3戸) 
千が滝西区観翠楼脇入った地に広瀬田鶴枝・広瀬昔一/広瀬家軽井沢別荘を建てる

1942  昭和17年 軽井沢町、西長倉村を合併(人口8,746人)
「軽井沢避暑団」と「軽井沢集会堂」とが合併し、「財団法人軽井沢会」発足

1947  昭和22年 天皇陛下、甲信地方ご巡幸、大日向開拓地をご視察
高崎市連雀町に軽井沢山荘分解し移転新築

軽井沢星野に別荘買換え(現星のや内)

1951  昭和26年 沓掛大火。(罹災世帯108世帯、全焼81戸)
「軽井沢町国際親善文化観光都市建設法」公布
1952  昭和27年 スケートリンク5ヵ所設備。(軽井沢・晴山・星野・雨宮・千ヶ滝室内)

星のや内の広瀬家別荘を星野に売却し星野8号の井上家別荘を取得
1953  昭和28年 浅間山及び軽井沢周辺、米軍演習地の設置反対大会(同年7月取消し決定)
1956  昭和31年 沓掛駅を中軽井沢駅に改称
1958 「軽井沢町の善良なる風俗維持に関する条例」制定公布
1960  昭和35年 沓掛区を中軽井沢に改称 
1961  塩沢湖完成。(民宿4戸) 
1963 信越本線碓氷新線横川~軽井沢間完成
軽井沢~長野間電化開通
第18回オリンピック東京大会総合馬術競技大会開催(12ヵ国、48人参加)
1966  昭和41年 横川~軽井沢間複線開通
1970  昭和45年 軽井沢駅前大火(全焼33戸、災害救助法発動される)
「軽井沢小鳥の森」県指定となる
1971  「碓氷有料バイパス」日本道路公団と建設省により完成
1972 連合赤軍による「浅間山荘事件」起こる
1974 軽井沢町「野鳥の森」開設
1980  旧三笠ホテル、国の重要文化財として指定される
軽井沢町資料館開館
1986  昭和61年 保健休養地”軽井沢100”記念宣言発表式
”軽井沢100”記念事業各種開催
ショーハウス復元竣工
1987  昭和62年 昭和天皇のご病状を憂慮し、「第21回軽井沢氷まつり」中止
1989  平成元年北陸新幹線、高崎~軽井沢間建設工事着工
故星野嘉助氏、市村きよじ氏、、名誉町民となる

広瀬家別荘星野8号を全面新築 超高密度断熱住宅で風呂3、台所3
1993  平成5年 上信越自動車道開通(藤岡~佐久間89.5km)
浅間サンライン全線開通(上田~軽井沢間27.39km)
上信越自動車道碓氷軽井沢ICよりアクセス道開通
1996  平成8年 第三セクター「しなの鉄道株式会社」発足
北陸新幹線・しなの鉄道・JRバス開業 
1998  平成10年 第18回長野冬季オリンピック「カーリング競技」を風越公園アリーナで開催(2月9日~15日)
風越公園屋外テニスコート完成
1999  平成11年 カナダ国・ブリティッシュコロンビア州・ウィスラー市と姉妹都市提携宣言書に調印
2001  国道18号「碓氷バイパス」無料化
湯川ふるさと公園一部使用開始
2003  天皇皇后両陛下行幸啓
皇后陛下御歌碑完成
 「かの町の 野にもとめ見し 夕すげの 月の色して 咲きゐたりしが」
2004 浅間山中噴火
軽井沢大賀ホール竣工、引渡し
星のや完成・広瀬家別荘に隣接・星のや最上層の建物のすぐ上が広瀬別荘
 

2007-05-20

ところ変われば、オーストリアから、サウナ混浴、友の証し。

ところ変われば、オーストリアから、サウナ混浴、友の証し。
2007/05/19, 日本経済新聞 夕刊, 3ページ, , 859文字 

 仕事やスポーツの疲れを汗と共にサウナで流す快感にはまっている人は
日本でも少なくないだろう。もともと「サウナ」はフィンランド語で、
日本では一九六四年の東京五輪をきっかけになじみになった。歴史が長い
欧州ではサウナの入り方にもお国柄の違いがあらわれている。

 驚くなかれ、ドイツ、オーストリア、スイスのドイツ語文化圏では
全裸の混浴が一般的だ。オーストリアでは温泉プールは水着着用だが、
サウナは一転、男女ともすっぽんぽん。「グリュス・ゴット(ごきげんよう)」
と一声かけ、空いているスペースに腰掛けたり、寝そべったりする。

 男女別が定着している日本人には違和感が大きいが、老若男女が一緒に
自然に振る舞う習慣になれると、文字通り身も心も解放された気分になる。

 サウナを大切にする暗黙のルールもある。施設を汚さないよう、
タオルは足元まできちんと敷き、汗を床に垂らさないようにする。
また、湿度を均一にし、みんなが快適に過ごせるよう、ベテランの男性が
絶妙のタイミングで「いきますよ」と声をかけ、タオルを数十秒間、
振り回す。

 自宅に浴槽はなくても、サウナを設置する人も少なくない。
ある日本人外交官はドイツ赴任時に友人宅に招かれ、食事後、
「うちの娘たちとサウナにでも入っていって下さい」と言われ、
耳を疑ったという。しかし、サウナは友好促進の手段で、友人として
信頼された証しにほかならない。

 もっとも欧州どこでも同じというわけではない。英仏などは男女別が
一般的だし、東欧ではそのうえで水着着用の人もいる。ただ、
ドイツやオーストリアの観光客に人気のスロベニア、クロアチアでは
じわじわと全裸混浴が広がっているようだ。

 もともと日本の温泉も混浴が一般的な社交場だった。日本の伝統的な
温泉の楽しみ方とドイツ、オーストリアなどのサウナ文化には底流で
通じる部分がありそうだ。(ウィーン=桜庭薫)

【図・写真】ドイツ語圏のサウナ文化では身も心も裸になる
全裸の混浴が最適と考えられている((C)〓sterreich Werbu
ng/H.Wiesenhofer) 

広瀬洋一 ㈱アサヒ商会社長
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